Tuesday, April 24, 2012

梨木香歩さんの「ぐるりのこと」

大好きな一節。

「たいていの場合、個人や集団の中で混沌としていたものが、その対立関係がその境界が、にわかにクリアーに突出してきたような気がする。さあ、お前はどっちなのだ、と日本は迫られ、個人も迫られ、そのたびに重ねて行く選択が、知らず知らず世の中の加速度を増してしまう。いいとか、悪いとか、いう二分法ではないところで、私たちはうかうかとこの世界の加速度を増して行く何かに荷担していってしまう。境界をクリアーに保ちたいと動いてしまう。ただ、分かっていることは、クリアーな境界にミソサザイの隠れる場所はないということだ。蛇の隠れる場所もないかわりに。それは皆、わかっているはずなのに。」(「隠れたい場所」より)

クイア理論の話をこの美しい文章に持ち込んでしまうと、何だかすべすべになった気持ちがまたカサカサしてきそう。でもあえて書いておきたい。クイア理論が創り出そうとする、あいまいで、よくわからなくて、2次元を超えた空間、あり方、考え方は、この梨木さんの「生け垣」の比喩にとても通じるところがある。

自分は最近やっとジェンダークイア、というジェンダー認識に落ち着いてきたけれど、ここにいたるまで、「女子」から「GID」、「FTM」へと自分のアイデンティティを巡る変遷があった。そのさなかには、どのカテゴリーにもしっくり当てはまらない、そしてコミットできない自分に、嫌悪とか恥とか優柔不断とか、いろいろ外の評価をゴリゴリと自分に押し付けて、自分のジェンダーパフォーマンス、というよりジェンダー認識自体をdisciplineしてきたように思う。

だから、流動的で一時的で、でも恒久的な、変化そのものを包容してくれるジェンダークイアというあり方に辿りついて、やっと色んな違和感やらコミットメントやらディシプリンやら、自分をがんじがらめにしていた有刺鉄線を取り払うことができてきたように思う。

でもクイア理論って、精神分析やら難しい言語学的な概念が多くて、私自身がそうであるように、毎日「クリアな境界」とそれが生みだす「中と外」によって苦しむ人たちに語りかける言葉として噛み砕きつつ、理論的なシャープさを保つのが結構難しい。でも、そういうことを生徒達と仲間達と話しながら、流動的な、柔らかい、それこそ「生け垣」的な空間を作っていけるような、そんな人間になりたいし、そういうものが書けるようになりたい。なれるかな。なれるといいな。

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