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Tuesday, April 24, 2012

モンゴル少年

YouTubeで音楽を聴いていて、偶然 China Got Talent で歌うモンゴルの少年の動画にたどり着いた。

内蒙古出身という12歳の少年は、美しい真っ白の民族衣装を身につけ、それこそアシタカのような「曇りなきまなこ」で、聴衆を見つめている。あの歳で両親を失っているという彼の生い立ちも手伝ってか、彼が歌う物悲しげなモンゴルの民謡に心を揺さぶられた。

残念ながら、僕には彼の歌う曲の歌詞は分からない。でも、彼の澄んだ声と瞳で、僕の目の前にモンゴルの大草原が広がっていくようだった。僕が幼い時に訪れた内蒙古の美しい大草原とそこで出会った人々のイメージが、モンゴルの光や馬、雲のイメージがすーっと心に広がり、気づいたら涙が出ていた。

でも、ショーの回を追う毎に、彼のパフォーマンスはどんどん劇化され、バックの音楽も周りのダンサーたちも大げさになっていく。彼をconsumeしようとする大人の意志がどんどん明確に見えていくようで、とても悲しい気持ちになった。

もちろん、彼には歌手として成功して欲しいし、これからも不自由なく歌を楽しみ、多くの人に彼の美しい声を届けて欲しい。でも、何だろう、彼のファイナルステージを見た時に感じた悲しみは。この高度資本主義社会と消費社文化の中では、まるで全てのものが「消費」と「金銭的価値」にすり替えられていくような。

彼の美しい歌に値段など付けられないことに、異論のある人はいないと思う。でも、彼にも値札が付けられ、プロデューサーたちが値踏みをし、そして彼の歌、彼の美しい容姿、モンゴル、あるいは遊牧民というエキゾチックさ、両親を失ったという生い立ちが商品化され、値段がつけられ、売られていく…。母のために歌ったという、彼の最初のステージの素晴らしさは、そんな現代社会の薄っぺらさをこえた、もっと深いところからきている筈なのに、あっという間に私たちはそれを失ってしまう。

僕らの文明の薄っぺらさは、破壊された自然と同様に、もう後戻りの出来ないところまできているのだろうか。



英語で文を書くということ

一つの言葉を発するとき、そこにはその言葉を使い、その言葉を聞き、その言葉から感じてきた歴史も同時にそこに現れてくる。だから言葉は人を感動させもするし、傷つけもする。

私の母語は日本語。多感な子供時代と思春期を、ずっと日本語を使って、日本語で感じて生きてきた。アメリカに渡ったのは18歳の時、それ以来私の中で、その日本語の歴史の「積み上げ」が止まってしまっているように感じる。

反対に、私の英語の歴史は18歳の時から始まった。でも、いくらボキャブラリーが増えたって、日本語と同じような感情豊な「言葉の歴史」が積み上がってきていない。それがネイティブとの違いなのかもしれない。

どれだけ英語が流暢になろうとも、私の書く一語一語に重みが感じられない。感情がうまく付与されていかない。愛情を熱意をもって始めたはずのライティングなのに、気持ちが置き去りにされていく。英語で文章を書くと、そこからするりと、私の魂が抜け出していく。

梨木香歩さんの「ぐるりのこと」

大好きな一節。

「たいていの場合、個人や集団の中で混沌としていたものが、その対立関係がその境界が、にわかにクリアーに突出してきたような気がする。さあ、お前はどっちなのだ、と日本は迫られ、個人も迫られ、そのたびに重ねて行く選択が、知らず知らず世の中の加速度を増してしまう。いいとか、悪いとか、いう二分法ではないところで、私たちはうかうかとこの世界の加速度を増して行く何かに荷担していってしまう。境界をクリアーに保ちたいと動いてしまう。ただ、分かっていることは、クリアーな境界にミソサザイの隠れる場所はないということだ。蛇の隠れる場所もないかわりに。それは皆、わかっているはずなのに。」(「隠れたい場所」より)

クイア理論の話をこの美しい文章に持ち込んでしまうと、何だかすべすべになった気持ちがまたカサカサしてきそう。でもあえて書いておきたい。クイア理論が創り出そうとする、あいまいで、よくわからなくて、2次元を超えた空間、あり方、考え方は、この梨木さんの「生け垣」の比喩にとても通じるところがある。

自分は最近やっとジェンダークイア、というジェンダー認識に落ち着いてきたけれど、ここにいたるまで、「女子」から「GID」、「FTM」へと自分のアイデンティティを巡る変遷があった。そのさなかには、どのカテゴリーにもしっくり当てはまらない、そしてコミットできない自分に、嫌悪とか恥とか優柔不断とか、いろいろ外の評価をゴリゴリと自分に押し付けて、自分のジェンダーパフォーマンス、というよりジェンダー認識自体をdisciplineしてきたように思う。

だから、流動的で一時的で、でも恒久的な、変化そのものを包容してくれるジェンダークイアというあり方に辿りついて、やっと色んな違和感やらコミットメントやらディシプリンやら、自分をがんじがらめにしていた有刺鉄線を取り払うことができてきたように思う。

でもクイア理論って、精神分析やら難しい言語学的な概念が多くて、私自身がそうであるように、毎日「クリアな境界」とそれが生みだす「中と外」によって苦しむ人たちに語りかける言葉として噛み砕きつつ、理論的なシャープさを保つのが結構難しい。でも、そういうことを生徒達と仲間達と話しながら、流動的な、柔らかい、それこそ「生け垣」的な空間を作っていけるような、そんな人間になりたいし、そういうものが書けるようになりたい。なれるかな。なれるといいな。