Wednesday, April 25, 2012

「隠され続けてきた被爆と被曝の被害」

メルマガ9に被爆医師として現在まで活躍中の肥田舜太郎さんが
、内部被爆の怖さと、内部被爆が避けられないものとなった日本で、ではどのようにして生きていけばいいのかについて語っている。 
 
被爆はさけられないものとして、健康に長く生きるのだと気概を持って生きる… 確かに説得力もあるし、本当にそうすることしかできないのだろう。それにしても、なんという国にしてしまったのだ。
 
 
肥田氏
「広島を経験した医者として、ああ、怖れていたことがついに起こってしまう、と思いました。放射線によってすぐに何万人が死ぬということではありません が、子どもも大人も放射線を出す物質が身体の中に入ったわけですから、これから何十年に渡っていろいろな病気が出てくるだろうということです。事故後1年 から、集中して出てくるのは3年から5年ほど経た頃だろうと考えています。この私の計算は、広島や長崎の被爆者を診てきた経験によるものです。今回の原発 事故で出てきた放射線は、原爆のものと同じですから、同じようなことが起きて不思議はないと思います。これから起きるべき事態に対して政府は慌てずに対応 できるよう、医療体制をちゃんと作っておかなくてはなりません。そして医者も患者をちゃんと診療できる力をつけておかないといけません。慢性被曝の症状を 前にして、何だかわかりません、というのでは広島や長崎の時と同じことになってしまう。原爆の被爆者はどこの病院に行っても「病気じゃありません」と言わ れ、それで理由もわからないまま、多くの人が苦しみまた死んでいったのですから。…」

Tuesday, April 24, 2012

モンゴル少年

YouTubeで音楽を聴いていて、偶然 China Got Talent で歌うモンゴルの少年の動画にたどり着いた。

内蒙古出身という12歳の少年は、美しい真っ白の民族衣装を身につけ、それこそアシタカのような「曇りなきまなこ」で、聴衆を見つめている。あの歳で両親を失っているという彼の生い立ちも手伝ってか、彼が歌う物悲しげなモンゴルの民謡に心を揺さぶられた。

残念ながら、僕には彼の歌う曲の歌詞は分からない。でも、彼の澄んだ声と瞳で、僕の目の前にモンゴルの大草原が広がっていくようだった。僕が幼い時に訪れた内蒙古の美しい大草原とそこで出会った人々のイメージが、モンゴルの光や馬、雲のイメージがすーっと心に広がり、気づいたら涙が出ていた。

でも、ショーの回を追う毎に、彼のパフォーマンスはどんどん劇化され、バックの音楽も周りのダンサーたちも大げさになっていく。彼をconsumeしようとする大人の意志がどんどん明確に見えていくようで、とても悲しい気持ちになった。

もちろん、彼には歌手として成功して欲しいし、これからも不自由なく歌を楽しみ、多くの人に彼の美しい声を届けて欲しい。でも、何だろう、彼のファイナルステージを見た時に感じた悲しみは。この高度資本主義社会と消費社文化の中では、まるで全てのものが「消費」と「金銭的価値」にすり替えられていくような。

彼の美しい歌に値段など付けられないことに、異論のある人はいないと思う。でも、彼にも値札が付けられ、プロデューサーたちが値踏みをし、そして彼の歌、彼の美しい容姿、モンゴル、あるいは遊牧民というエキゾチックさ、両親を失ったという生い立ちが商品化され、値段がつけられ、売られていく…。母のために歌ったという、彼の最初のステージの素晴らしさは、そんな現代社会の薄っぺらさをこえた、もっと深いところからきている筈なのに、あっという間に私たちはそれを失ってしまう。

僕らの文明の薄っぺらさは、破壊された自然と同様に、もう後戻りの出来ないところまできているのだろうか。



日本語に  "I" はない

日本語には、英語でいうところの、普遍的な "I" は存在しない。
『私』にも『僕』にも『おいら』にも『うち』にもニュアンスがあり、所属がある。

『私』と称することで大人の女性を引き受けることが、若い『僕』にはできなかった。僕が抵抗しようとしたのは、思春期における『私』という一人称がもつ『大人になる』という意味あいだったのか、それとも『女性になる』という意味合いだったのか、僕自身にも分からない。おそらく、その両方だったのだろう。でもどちらにしても、『僕』は『私』になれなかった。

かといって、『僕』として堂々と生きていけるほど僕は強くもなく、それでも精神的な『安定感』やbelongingを得られるほど、僕は『僕』ではなかった。

日本語は、ある程度主語を省いても文章が成り立つ言語だけれど、だからといって、いつも主語が必要ない筈もなく、"I" と主張をしなくてはいけない場面で、言葉につまり、自信を失う。まるで、その後に続く言葉全てに自信がないかのように。

でもよくよく考えれば、発話者としての立場をはっきり持てない状態で、そんな気持ちのままで、どれほどはっきりした発言ができるというのか。

僕は英語で話すとき、少し人格が変わったような、自分がはっきりしたような感覚を覚える。それは、英語の "I"がもつパワーによるものなのか、それとも、英語と僕の間にある浅い関係性が、無責任に強い言葉を発することを可能にしているだけなのか。

英語で文を書くということ

一つの言葉を発するとき、そこにはその言葉を使い、その言葉を聞き、その言葉から感じてきた歴史も同時にそこに現れてくる。だから言葉は人を感動させもするし、傷つけもする。

私の母語は日本語。多感な子供時代と思春期を、ずっと日本語を使って、日本語で感じて生きてきた。アメリカに渡ったのは18歳の時、それ以来私の中で、その日本語の歴史の「積み上げ」が止まってしまっているように感じる。

反対に、私の英語の歴史は18歳の時から始まった。でも、いくらボキャブラリーが増えたって、日本語と同じような感情豊な「言葉の歴史」が積み上がってきていない。それがネイティブとの違いなのかもしれない。

どれだけ英語が流暢になろうとも、私の書く一語一語に重みが感じられない。感情がうまく付与されていかない。愛情を熱意をもって始めたはずのライティングなのに、気持ちが置き去りにされていく。英語で文章を書くと、そこからするりと、私の魂が抜け出していく。

1200人の新生児と13歳の少女と。

今朝東京新聞を読んでいて、この二つの記事が目に留まった。人間が生みだした、一度暴れ出すと制御不能の原子力という化け物と、それをさらに殺戮の為に利用しようとする化け物たち。

広島と長崎に原爆が投下され、日本がアメリカの占領下にある間に、親の被爆の影響により死亡した1200人もの新生児の臓器がアメリカ政府の手に渡っていたのだそうだ。戦争をし、原子力を使うとはこういうことなのだ。

「被爆赤ちゃん1200人研究利用 遺伝影響調査で米」

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012042101002115.html

2つ目の記事は、東日本大震災で住む町が破壊され、後輩が亡くなったという13歳の少女が故郷への思いや、避難し都会に暮らす同胞を思いを歌っている。このような歌を日本に暮らす若い女の子が歌う日が来ようとは。自然災害と原子力災害に見舞われ復興が大きく妨げられる福島とその周辺地域。原子力災害さえなければ、せめて人々は心を合わせて復興に向けて全力投球できたんじゃないかと思うと、原子力がもたらす破壊の異質さに、背筋が凍る思いがする。人々の日常生活を、心を、自然を引き裂く、それが原子力。

原子力は、新生児の遺体を家族から、その国から引きはがし、放射線が与える遺伝子レベルのダメージを調べることが「必要」な技術。まさに、人々を自然を破壊しバラバラにするために生まれてきた化け物だ。そんなものが、日本に50以上もある。

私もまもなく30になろうという歳になった、もう「大人たち」を責められる歳ではなく、次世代から「大人」として責められる歳だ。だから、微々たることでも少しずつ積み上げ、何とかこの原子力という怪物をせめて日本からなくしていくプロセスに貢献していきたい。もう、化け物たちによって半永久的に故郷から引きはがされる人々を生みだすことのないように。無関心によってその暴力に荷担してしまわないように。

「大槌の13歳、故郷歌う 被災少女歌手デビュー」

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012042102000241.html

biopoliticsもcapitalism+neoliberarlism+neocolonialismにはお手上げ?

フーコーの理論として有名な、人口や平均寿命、健康といった科学的概念を用い、国民を生産的に「生かす」ポリティクス, その名もbiopolitics。

体育、保健の授業等を見ていると、確かに近代国家はずいぶんと国民の『健康」あるいは「再生産(人口増加)」に執着しているなーというのは実感できると思うのだが、そんな強力なbiopoliticsが、ネオリベとネオコロと、ようするに目先の経済的利益と物質的豊かさを追求する考え方によって断末魔の叫びをあげている。

以前は、アメリカの医療保険や学生ローン、住宅ローン、ファストフードの反乱、混乱ぶりを見ていて、あー、biopoliticsと言っても、しょせん人間の目先の利益と金儲けへの欲には勝てないのね、なんて、あんまり学問的でない?見方をしていた。

でも2011年の福島での原発大爆発以降、日本でもその様子が顕著に見られるようになってきた。そう、原発事故のデータの隠蔽と、がれきの広域処理、食品検査の不足(そして汚染度の深刻さの隠蔽、ごまかし)による全国的汚染拡大と、さらには人々の避難が遅々として進んでいないこと(むしろ戻そうとしている…)などなど、それこそ日本全国皆自殺(いや、他殺だな)的状況がずっと続いている。

もちろん内部被爆、低線量被爆の恐ろしさは、残念ながら今後徐々に判明していくのを待つしかない。でも、この「単一民族幻想」がまだ生きる日本におけるこの状況は、Mbembe(ンベンベとカタカナでは書くのかしら?)のネクロポリティクス論によるフーコーへの反論すら、当てはまらない状況になりつつある。

それとも、このネオリベ、キャピタリスト、ネオコロニアルな世界では、政府レベルで隠蔽が行われるような機密情報を手に入れられる位置にいる人間以外は全て、「死んでよし」、あるいはまさに、"always dying" なポピュレーションなのだろうか。

梨木香歩さんの「ぐるりのこと」

大好きな一節。

「たいていの場合、個人や集団の中で混沌としていたものが、その対立関係がその境界が、にわかにクリアーに突出してきたような気がする。さあ、お前はどっちなのだ、と日本は迫られ、個人も迫られ、そのたびに重ねて行く選択が、知らず知らず世の中の加速度を増してしまう。いいとか、悪いとか、いう二分法ではないところで、私たちはうかうかとこの世界の加速度を増して行く何かに荷担していってしまう。境界をクリアーに保ちたいと動いてしまう。ただ、分かっていることは、クリアーな境界にミソサザイの隠れる場所はないということだ。蛇の隠れる場所もないかわりに。それは皆、わかっているはずなのに。」(「隠れたい場所」より)

クイア理論の話をこの美しい文章に持ち込んでしまうと、何だかすべすべになった気持ちがまたカサカサしてきそう。でもあえて書いておきたい。クイア理論が創り出そうとする、あいまいで、よくわからなくて、2次元を超えた空間、あり方、考え方は、この梨木さんの「生け垣」の比喩にとても通じるところがある。

自分は最近やっとジェンダークイア、というジェンダー認識に落ち着いてきたけれど、ここにいたるまで、「女子」から「GID」、「FTM」へと自分のアイデンティティを巡る変遷があった。そのさなかには、どのカテゴリーにもしっくり当てはまらない、そしてコミットできない自分に、嫌悪とか恥とか優柔不断とか、いろいろ外の評価をゴリゴリと自分に押し付けて、自分のジェンダーパフォーマンス、というよりジェンダー認識自体をdisciplineしてきたように思う。

だから、流動的で一時的で、でも恒久的な、変化そのものを包容してくれるジェンダークイアというあり方に辿りついて、やっと色んな違和感やらコミットメントやらディシプリンやら、自分をがんじがらめにしていた有刺鉄線を取り払うことができてきたように思う。

でもクイア理論って、精神分析やら難しい言語学的な概念が多くて、私自身がそうであるように、毎日「クリアな境界」とそれが生みだす「中と外」によって苦しむ人たちに語りかける言葉として噛み砕きつつ、理論的なシャープさを保つのが結構難しい。でも、そういうことを生徒達と仲間達と話しながら、流動的な、柔らかい、それこそ「生け垣」的な空間を作っていけるような、そんな人間になりたいし、そういうものが書けるようになりたい。なれるかな。なれるといいな。

Queer music and performance

サンフランシスコをベースに活動する The Mighty Slim Pickinsの "13 Times". "What-the-fuck-abilly"バンドを称するこのグループ、いい声&音楽に加えて、ジェンダークイアリング炸裂。

[youtube http://www.youtube.com/watch?v=a7PPnQU6FXs&w=420&h=315]

2011年、サンフランシスコ・ドラッグキングコンテストのプロモビデオ。ドラッグキングならではの「masculinity」あるいは「男らしさ」のサタイアと政治性の強いパフォーマす。さすがはサンフランシスコ、ドラッグキングコンテストも規模がでかい。

[youtube http://www.youtube.com/watch?v=zQzakCMurro&w=420&h=315]

クラシック?Saturday Night Liveの "It's Pat"。パット(というより彼/女の周囲の人々)が遭遇する様々なジェンダートラブルと、社会のバイナリージェンダーへの異様な執着を見事に描き出したコメディ。しかし、パットのジェンダー以外の行動が引き起こす問題が多過ぎて、ジェンダーによるトラブルが若干隠されてしまうのだが。。それともパットくらいエキセントリックでないと、曖昧なジェンダーを(隠さず)生き通すことは難しいということか。

It's Pat 1:

[youtube http://www.youtube.com/watch?v=9lit1cSptJw&w=560&h=315]

halberstam に励まされて

クイア、ポストコロニアル、ポストモダン、フェミニスト、そんな理論やら、日本の原発や環境問題について、カナダの大学院に所属するqueer Ph.D生が書いているブログです。

フェイスブックやツイッターでの情報発信、議論を試みてみたものの、政治的な話や学術的な話はSpoiler! という「雰囲気」を読むのも面倒なのでここに書きたいことを色々書くことにしました。

Failure こそクイアなれ。

更新は不定期ですので悪しからず。