Saturday, June 22, 2013

ドキュメンタリー Aldeia Maracanã

ブラジルで行われる再開発に伴い、インディオの人々の歴史の詰まった建物が解体・立ち退きの危機に瀕している。「土着」の人々、太古からそこに住み続けてきた人々を押しのけて進むグローバリゼーションと、再開発という名の土地奪取。そこに存在し続けるための戦いを追ったドキュメンタリー。

http://vimeo.com/44355660

"A group of Brazilian indians, belonging to different ethnic groups from all over the country, has occupied, since October 2006, an old colonial building abandoned.
This building had previously hosted the ancient Indian Museum, until 1977, when the Museum was moved to its present location, in the district of Botafogo. In the coming month, the indians' struggle to defend this space that it is theirs by right, will be very tough.
With the renovation of the nearby stadium Maracana, Rio Prefecture may decide to demolish the building, to make there a parking lot or a shopping center.
The Indians want to create the first indigenous university in Brazil."

Protests in Brazil over "gay cure"


ブラジルの反汚職、反メガ・スポーツイベント・デモに、最近ブラジルにできた"ゲイ治療”法に反対するグループが参加。「私たちはこの法律に反対しているだけではありません。汚職も教育も医療も治療が必要です。ブラジルには他に治療を受けるべきものが沢山あります。」

Go queer Brazil! One protester says, "Our protests are not just about cure, we want to cure for corruption, education, and health. We need a lot of cures in Brazil." 

https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=EfvLykrpSUY

Wednesday, May 9, 2012

「空かずの多目的トイレ 車いす利用者の74%、諦めた経験」

東京新聞が国土交通省が行った多目的トイレの利用についてのアンケート調査の結果を公表した。

東京新聞 「空かずの多目的トイレ 車いす利用者の74%、諦めた経験」

以下は記事の引用:

「車いす利用者の74%が、他の人が使用中だったことを理由に、身体障害者用トイレにおむつ交換台や着替え台などを備えた「多目的トイレ」の使用を諦めた経験があることが国土交通省のアンケートで分かった。
 国交省は、多目的トイレに機能を集めすぎ、子ども連れや手すりが必要な高齢者らの利用が増えていると分析。一般トイレに機能を分散させて利用者を 誘導するため、公共トイレを整備する自治体や公共交通事業者向けに、バリアフリー法に基づく整備ガイドラインを改定する方針だ。
 アンケートは、全国の車いす利用者百五人に昨年十一~十二月に実施。94%が待たされた経験があり、待たされた相手(複数回答)は、83%が「子ども連れ」を、71%が「障害者に見えない人」を挙げた。多目的トイレが足りないと感じる人も75%に上った。
 ガイドラインの基となる「建築設計標準」の改定案では、多目的トイレとは別に、親子がベビーカーごと入れる広めの個室トイレの設置が必要だとし た。おむつ交換台やオストメイト(人工肛門・人工ぼうこう保有者)向けの汚物流しを一般トイレに増設することや、男性の育児にも配慮し、男性用トイレにも おむつ交換台などを整備するのが望ましいとしている。
 アンケートでは「折り畳み式のおむつ交換台が開きっぱなしで多目的トイレに入れなかった」「荷物が多いせいか、空港で客室乗務員が平然と使っている」といった指摘もあり、国交省はポスターを各施設に配布しマナー向上を呼びかける。
<多目的トイレ> 広いスペースに洋式便器や手すり、オストメイト用の水洗器具を備えた障害者トイレに、おむつ交換台や着替え用の踏み台といった子 ども連れ向けの設備を加えたトイレ。2000年以降に増えた。「みんなのトイレ」「どなたでもどうぞ」と表示されるケースも多い。障害者トイレは、バリア フリー法で床面積2000平方メートル以上の学校、駅、百貨店など公共建築物に整備が義務付けられている。」

多目的トイレの利用状況、その問題点などを調査するのは非常に大切だと思う。
でも、この問題分析と公表の仕方は多目的トイレは障害者が最優先に使うべきである、という前提があって、障害者以外の利用者がまるでマナー違反をしているかのようだ。

私はジェンダークイアで、女子トイレに入るとしょっちゅうハラスメントを受ける。「ここは女子トイレよ」とか「なんで男子がいるの」とかいう直接的な言葉でのハラスメントはもちろんのこと、全身をじろじろ見られたり、挙げ句にはセキュリティを呼ばれることもある。そんな状況では安心して女子トイレには入れないし、男だと思っている訳でもないから、男子トイレにも入り辛い。

だから私のようなジェンダークイアや、トランスジェンダーの人々にとっても第3のスペースである多目的トイレは非常に重要だ。他にも一見障害者に見えなくても、障害者でなくても既存のトイレの施設が不自由になる理由は多々あるはずだ。

調査分析自体も、設備が多目的トイレに集中し過ぎている、あるいは高齢者の増加などの設備の問題点を自ら指摘しているにも関わらず、「マナー向上」を呼びかけるという、利用者を批判する方向に持っていく。不備の責任を利用者に転嫁するやり方、本当に稚拙だ。むしろ、ご不便をおかけし申し訳ございません、っていうポスターでも貼るべきなんじゃない?

Wednesday, April 25, 2012

「隠され続けてきた被爆と被曝の被害」

メルマガ9に被爆医師として現在まで活躍中の肥田舜太郎さんが
、内部被爆の怖さと、内部被爆が避けられないものとなった日本で、ではどのようにして生きていけばいいのかについて語っている。 
 
被爆はさけられないものとして、健康に長く生きるのだと気概を持って生きる… 確かに説得力もあるし、本当にそうすることしかできないのだろう。それにしても、なんという国にしてしまったのだ。
 
 
肥田氏
「広島を経験した医者として、ああ、怖れていたことがついに起こってしまう、と思いました。放射線によってすぐに何万人が死ぬということではありません が、子どもも大人も放射線を出す物質が身体の中に入ったわけですから、これから何十年に渡っていろいろな病気が出てくるだろうということです。事故後1年 から、集中して出てくるのは3年から5年ほど経た頃だろうと考えています。この私の計算は、広島や長崎の被爆者を診てきた経験によるものです。今回の原発 事故で出てきた放射線は、原爆のものと同じですから、同じようなことが起きて不思議はないと思います。これから起きるべき事態に対して政府は慌てずに対応 できるよう、医療体制をちゃんと作っておかなくてはなりません。そして医者も患者をちゃんと診療できる力をつけておかないといけません。慢性被曝の症状を 前にして、何だかわかりません、というのでは広島や長崎の時と同じことになってしまう。原爆の被爆者はどこの病院に行っても「病気じゃありません」と言わ れ、それで理由もわからないまま、多くの人が苦しみまた死んでいったのですから。…」

Tuesday, April 24, 2012

モンゴル少年

YouTubeで音楽を聴いていて、偶然 China Got Talent で歌うモンゴルの少年の動画にたどり着いた。

内蒙古出身という12歳の少年は、美しい真っ白の民族衣装を身につけ、それこそアシタカのような「曇りなきまなこ」で、聴衆を見つめている。あの歳で両親を失っているという彼の生い立ちも手伝ってか、彼が歌う物悲しげなモンゴルの民謡に心を揺さぶられた。

残念ながら、僕には彼の歌う曲の歌詞は分からない。でも、彼の澄んだ声と瞳で、僕の目の前にモンゴルの大草原が広がっていくようだった。僕が幼い時に訪れた内蒙古の美しい大草原とそこで出会った人々のイメージが、モンゴルの光や馬、雲のイメージがすーっと心に広がり、気づいたら涙が出ていた。

でも、ショーの回を追う毎に、彼のパフォーマンスはどんどん劇化され、バックの音楽も周りのダンサーたちも大げさになっていく。彼をconsumeしようとする大人の意志がどんどん明確に見えていくようで、とても悲しい気持ちになった。

もちろん、彼には歌手として成功して欲しいし、これからも不自由なく歌を楽しみ、多くの人に彼の美しい声を届けて欲しい。でも、何だろう、彼のファイナルステージを見た時に感じた悲しみは。この高度資本主義社会と消費社文化の中では、まるで全てのものが「消費」と「金銭的価値」にすり替えられていくような。

彼の美しい歌に値段など付けられないことに、異論のある人はいないと思う。でも、彼にも値札が付けられ、プロデューサーたちが値踏みをし、そして彼の歌、彼の美しい容姿、モンゴル、あるいは遊牧民というエキゾチックさ、両親を失ったという生い立ちが商品化され、値段がつけられ、売られていく…。母のために歌ったという、彼の最初のステージの素晴らしさは、そんな現代社会の薄っぺらさをこえた、もっと深いところからきている筈なのに、あっという間に私たちはそれを失ってしまう。

僕らの文明の薄っぺらさは、破壊された自然と同様に、もう後戻りの出来ないところまできているのだろうか。



日本語に  "I" はない

日本語には、英語でいうところの、普遍的な "I" は存在しない。
『私』にも『僕』にも『おいら』にも『うち』にもニュアンスがあり、所属がある。

『私』と称することで大人の女性を引き受けることが、若い『僕』にはできなかった。僕が抵抗しようとしたのは、思春期における『私』という一人称がもつ『大人になる』という意味あいだったのか、それとも『女性になる』という意味合いだったのか、僕自身にも分からない。おそらく、その両方だったのだろう。でもどちらにしても、『僕』は『私』になれなかった。

かといって、『僕』として堂々と生きていけるほど僕は強くもなく、それでも精神的な『安定感』やbelongingを得られるほど、僕は『僕』ではなかった。

日本語は、ある程度主語を省いても文章が成り立つ言語だけれど、だからといって、いつも主語が必要ない筈もなく、"I" と主張をしなくてはいけない場面で、言葉につまり、自信を失う。まるで、その後に続く言葉全てに自信がないかのように。

でもよくよく考えれば、発話者としての立場をはっきり持てない状態で、そんな気持ちのままで、どれほどはっきりした発言ができるというのか。

僕は英語で話すとき、少し人格が変わったような、自分がはっきりしたような感覚を覚える。それは、英語の "I"がもつパワーによるものなのか、それとも、英語と僕の間にある浅い関係性が、無責任に強い言葉を発することを可能にしているだけなのか。

英語で文を書くということ

一つの言葉を発するとき、そこにはその言葉を使い、その言葉を聞き、その言葉から感じてきた歴史も同時にそこに現れてくる。だから言葉は人を感動させもするし、傷つけもする。

私の母語は日本語。多感な子供時代と思春期を、ずっと日本語を使って、日本語で感じて生きてきた。アメリカに渡ったのは18歳の時、それ以来私の中で、その日本語の歴史の「積み上げ」が止まってしまっているように感じる。

反対に、私の英語の歴史は18歳の時から始まった。でも、いくらボキャブラリーが増えたって、日本語と同じような感情豊な「言葉の歴史」が積み上がってきていない。それがネイティブとの違いなのかもしれない。

どれだけ英語が流暢になろうとも、私の書く一語一語に重みが感じられない。感情がうまく付与されていかない。愛情を熱意をもって始めたはずのライティングなのに、気持ちが置き去りにされていく。英語で文章を書くと、そこからするりと、私の魂が抜け出していく。